Exhibition Period: October 4 (Sat) – 26 (Sun), 2025, 12:00–18:00
(Closed on Wednesdays and Thursdays)
Venue: Contemporary Art Factory
518 Hikigichō, Kamigyō-ku, Kyoto 602-0065
◾️イベント
オープニングレセプション 10月4日(土)17:00-20:30
スナック現美 10月25日(土)18:00-20:30 参加費1000円(ワンドリンク付き)
街中のスナックにいるような雰囲気で、気軽なおしゃべりと交流のひとときをお楽しみください。
当日は18:30より、ホ・テウォンによるアーティスト・トークを行います。
Opening Reception
Saturday, October 4, 17:00–20:30
Genbi Snack Bar
Saturday, October 25, 18:00–20:30 Admission: 1,000 yen (includes one drink)
Enjoy a relaxed evening of conversation in an atmosphere reminiscent of a cozy downtown snack bar.
At 18:30, there will be an Artist Talk by Heo Taewon.
私は生活圏と芸術圏のあいだ、日常の繰り返されるリズムと芸術制度が交差する地点に留まる存在だと感じている。静かな反復である洗濯の中に思索の空間が開かれ、そこで私は自分が何者なのかを考える。〈洗濯する日 / Laundry Days〉(注)はそのようにして始まったものであり、暮らしの繊維と芸術の言語とを織り交ぜようとする試みである。
(注)今回の展示では、アーティストの了解を得て、タイトルを〈洗濯日和 / Laundry Days 〉としています。
◾️ホ・テウォン (허태원 / Taewon Heo )プロフィール
1976年生まれ ソウル在住
ソウルデジタル大学助教授 2025-現在
弘益大学絵画科兼任教授 2018-2024
主な展覧会
平昌(ピョンチャン)国際トリエンナーレ 2024
昌原(チャンウォン)彫刻ビエンナーレ 2014
すみだ向島エキスポ 2020
プロジェクト大田:エネルギー」ビエンナーレ 2012
主なプロジェクト
ここに花を植えてもいいですか? 2011-2016
衿川共同庭園(geumcheon Communal Garden), 2011※
Urban Blues 2017-現在
※韓国美術を紹介するイギリスの教科書(Bloomsbury出版社)に掲載
「時間の多様性を取り戻す」 김다이 / キム・ダイ(全北道立美術館 学芸研究員)
時間は資本主義体制において、生産と直接的に結びつく経済的資源である。労働者は自らの時間を提供した対価として賃金を受け取り、費やされた労働時間は自身の生産性を測る尺度となる。同じ時間内により多くの商品を生産することが、すなわち利益の最大化につながるからである。このように、余剰価値の生産量によって勝者が決まるゲームにおいて、時間は究極の勝負所となる。「超高速」「最年少」といったタイトルは、まさにその重要な資源を効果的に使用した事例への称賛のトロフィーである。問題は、このシステムが生産性や効率とは無縁なものを無用な「余剰」と分類し、烙印を押して存在論的疎外を正当化する点にある。『疲労社会』という書籍で広く知られる哲学者ハン・ビョンチョルは、『時間の香り』の序文で、今日の時間について次のように述べている。
「今日の疲労社会は時間そのものを人質に取っている。この社会は時間を仕事に縛り付け、時間をすなわち仕事の時間にしてしまう。仕事の時間には香りがない。今日、私たちには仕事の時間以外の時間がない。(...)緊張の緩和(Entspannung)もまた、労働力の再充電に寄与するという点で、仕事の一形態に過ぎない。いわゆるスローライフ(Entschleunigung)も別の時間を生み出すことはできない。それもまた、加速された仕事の時間が生んだ結果に過ぎない。一般的に受け入れられている見解とは異なり、スローライフは今日直面している時間の危機、時間の病を克服することはできない。スローライフ運動は症状に過ぎない。症状で病を治すことはできない。今日必要なのは、別の時間、仕事の時間ではない新しい時間を生成する時間革命である。時間に香りを取り戻す時間革命。」[^1]
ハン・ビョンチョルはこの書籍で、「活動的生活」に席を譲った「思索的生活」が辺境へと追いやられる時代の弊害を明らかにする。活動的生活とは、生存のための「労働」、人工的な世界を創造する過程を含む「作業」、そして自己表現と相互作用を基盤に共同体内で関係を形成する「行為」、この三つが調和する生活を指す。[^2] したがって、単に生存のための労働で満たされた生活ではなく、作業と行為を加え、共同体の一員として過ごす時間の量と質が、活動的生活を送っているかどうかの答えとなる。加速された社会では、活動的生活は効率性と速度によって支配され、実際には空虚な活動だけが残ったり、活動の「過剰」によってむしろ思索やコミュニケーションから遠ざかる副作用を生む。活動への強迫観念で消耗した疲労社会の離脱者たちは、代案を模索する。時間の厳格な統制よりも自然の流れ、季節に応じた労働、自給自足の共同体を形成するなど、「症状緩和」のための動きがその例である。疲労社会を自嘲するかのように、有用性への強迫から意識的に逃避する「ぼーっとする大会」が大衆的共感を得るのも、この流れの中にある。
比較的無用性に寛容な芸術の領域でも、時間の有用性や効率性に関する問いは続いてきた。早くもフランシス・アリス(Francis Alÿs)は『実行の逆説 I』(1997、Paradox of Praxis I)シリーズを通じて、時間そのものを見つめ、体験する詩的な行為を示している。彼は『Sometimes Making Something Leads to Nothing』で、目的もなくメキシコシティの街を歩き回り、大きな氷の塊を転がし、約9時間かけて氷が完全に溶けて消えると、可視的な成果物なしに作業を終える。アリスは作業自体が消耗的で、生産的でなく、無用な行為と見なされるとしても、その過程と時間の経験がもたらす感覚に集中する。労働をはじめとするあらゆる活動に抵当に取られていた「時間」そのものを取り戻すことが、すなわち活動と思索の二分法を超えた生活の前提条件であるからだろう。
ホ・テウォンはアリスと類似した次元で彼の詩を綴る。芸術と無用性の関係を再考するこの作業は、労働・作業・行為の間の序列を削除し、活動的生活と思索的生活の間の隔たりを縮めようとする。そして最終的には、生産性と効率を最優先の価値とする現代社会において、芸術(家)の役割と位置について問う。
『洗濯する日』は、ホ・テウォンが2008年から現在まで継続してきた連作で、実際に洗濯をした日ごとに家の中に置かれた洗濯物干しを撮影した写真、過去数ヶ月の家事労働記録と作家の個人的な活動記録を収めたカレンダー、そして実際の衣類が干された洗濯物干しのインスタレーションで構成される。作家自身が「生活圏と芸術圏の中間圏に住んでいる」という感覚から始まったこの作業は、日々の「活動的生活」を象徴する洗濯物干しを通じて、具体的な時間と抽象的な時間の境界を取り払う。ここでの境界とは、(実際にはその有用性に関する認知すら鈍くなった)日常的な家事労働と芸術実践の間に存在する区別と序列を指す。
芸術実践としての洗濯は、個々の活動の多様な時間差を反映し、質的価値を形成することができる。一方、家事労働としての洗濯は、それに伴うすべての労働を一つの成果物を生産する時間として換算し、その過程に含まれるさまざまな労働の性格は相対的に一括りにされ、抽象化されやすい。資本主義体制では、すべての労働が同じ価値を生産する時間と見なされ、労働の人間的価値よりも交換価値が優先されるからである。ホ・テウォンは「生活圏」という非可視領域で行われる反復的、自己犠牲的な家事労働を、非常に可視化された領域であり、その多層的意味を生成し再生する「芸術圏」の作業と対応させる。これにより、具体的な時間と抽象的な時間の間の序列を削除し、洗濯という生活圏の労働と芸術実践の間に接点を作り出す。
今や生活圏と芸術圏の間にいるホ・テウォンに横たわる問い、「私は何をする人間なのか」が残されている。この問いは、『洗濯する日』に内包された自画像的側面と接している。文学的自画像理論を確立したミシェル・ボジュールは『インクの鏡(Miroir d’encre)』で、自画像が単に「私が何をしたのか」ではなく、「私が誰なのか」という問いと結びつくものであると述べている。[^6] ホ・テウォンが過去の『ここに花を植えてもいいですか?』(2011-2016)プロジェクトを通じて、生活と芸術を結びつけ、周縁化された存在たちの現実を可視化したとすれば、『洗濯する日』は生活と芸術を結びつけながらも、洗濯という素材から派生した私的な言説を形象化する。芸術実践としての洗濯が持つ問いが、「生活圏」の普遍性と接し、現代人の日常的な問いとして伝えられるのである。また、彼は私的空間に置かれていた洗濯物干しを美術館へ、さらに映像作品を通じて森の中へと移し、日常の内外に置かれた時空間を結合し、感覚の拡張を試みる。
『洗濯する日』は、資本主義の中で無用なものとみなされがちな芸術について、自嘲しつつも、最終的には効率と生産性を至上とする体制の外へと逃れてきた芸術こそが、「思索する時間を稼ぐ」領域であることを忘れない。ホ・テウォンの過去の作品紹介文では、この作品の趣旨が次のように要約されている。
「効率的でもなく、生産的でもない、まったくもって“役に立たない”ように見える芸術は、なぜこれほど長きにわたり人間と共に存在してきたのだろうか? だが、このような“役に立たない”活動を通じて、作家は自身の人生を語り、自己を省みる機会を得る。また、“無意味に見える”、“非生産的”、“非効率的”な作品を通じて、観覧者は今まで覆い隠されていた時間と形象の新たな側面を発見できるだろう。」
日常と芸術、あるいは現実と思索の間をつなぐ芸術実践の「価値」は、同一性の支配する世界の中で「差異」を生み出すことにある。既存の固定された価値に疑問を投げかけ、権力の場を絶えず撹乱してきた芸術の歴史を振り返ってみても、差異を生み出すことにおいて芸術家ほど生産的な存在はいないかもしれない。あらゆる価値を「役に立つかどうか」で判断する資本主義のイデオロギーの中で、芸術が創り出す「差異」は、時間の多様性を取り戻す鍵となりうる。そして芸術の役割もまた、この「無用さ」という差異の創出そのものにあるのかもしれない。
1.ハン・ビョンチョル、『時間の香り:滞在の技術』、キム・テファン訳、文学と知性社、2013年、pp. 5-6.
2.ハンナ・アーレント、『人間の条件』、イ・ジヌ訳、ハンギル社、2019年。
3.ここで言及されている「意味場(Sinnfeld)」とは、ある存在が与えられる方式である「意味(Sinn)」が現れる「場(Feld)」を意味する概念語であり、現実において私たちがある存在を特定の与えられ方で出会うという「意味場実在論(SFO)」の文脈で使用されている。またここでいう「意味」とは、ある対象を異なる「把握の仕方」で理解することではなく、ある対象が異なる「与えられ方」をするという意味であり、したがって実在的である。マルクス・ガブリエル、「訳者解題」、『芸術の力』、キム・ナムシ訳、Ibby、p. 111.
4.フリードリヒ・ニーチェ、『悲劇の誕生/反時代的考察』、イ・ジヌ訳、チェクセサン、2005年、p. 288.
5.ジョルジョ・アガンベン、『装置とは何か?装置学のための序論』、ヤン・チャンリョル訳、ナンジャン、2010年、pp. 70-71.
6.ミシェル・ボジュール、『インクの鏡(Miroir d’encre)』、パリ、スイユ、1980年、pp. 8-9.